いちえんじゅうえん

新薬師寺のCM見ていて「そうだ、ブログやろう」と思い立ちました(ナンデヤネン(-_-;)?)鳥と、同人と、TVと本辺りがメインになるでしょうか。

プロフィール

いい年ですが、未だにオリジナルで同人やってるオタです(^^)v デジタルはCHIXIでお勉強中。メインは完全アナログな前時代人です。 自分については語れることがあまりないので、インコとかTVとか本とか、そういうのをあれこれ呟いております。ブログは初めての初心者なので手際の悪さは目を瞑ってくださいまし<(_ _)>

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過去の日記

 
2011-07-26 01:48

没原稿案

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Good!
会社で用がなくなったので、こちらで書くことにしましたw
せっかく調べたというのにもったいなくて。
チィに書く方がいらん制約考えなくていいので素で書けるからかえって楽しい♪
なので「会社仕様」ではなく「十円仕様」になっております<(_ _)>
「いや、オレの方がはるかに詳しいから」という方はスルーなさることをお勧めします。
素人の付け焼刃学問ですからねv
甘く見てね(^_-)-☆


1914年6月28日サラエボ事件が起こります。
歴史の教科書に必ず出てくるあの事件です。
結局第一次大戦ネタでございますw

オーストリアの皇太子夫妻が軍事演習観閲のためサラエボを訪れていたおり、オープンカーでのパレード中にセルビア人の学生に射殺された、というのが第一次大戦の引き金ですね。

オーストリアはかつてトルコ革命(1908年)に乗じてボスニア・ヘルツェゴビナを併合してしまった経緯があります。
ところがセルビアも、このボスニア・ヘルツェゴビナを併合したかったらしい。そこを横取りされたもんだから
「オーストリア、ムカつく!」
・・・と思ったかどうか。

とにかく両国の関係は悪くなっておりました。

そこへサラエボ事件。
もともとここにはオーストリアによる併合を良しとしないセルビア系移民が多かったから、オープンカーパレードなんて、「鮫の群れの中に素っ裸にマラカス1丁の松健を放り込むようなもの(BY坂田銀時)」

案の定事件が起こりまして。
オーストリアは「セルビアの陰謀」として翌7月28日宣戦布告。第一次世界大戦が勃発しました。

普通ならここでおこるのはこの2国間の戦争のはず。
なんだって世界大戦?

オーストリア、セルビアにいわゆる芋づる式に他の国がくっついてきてしまい、2国間の争いで治まらなかった訳です。



このときの仲良し組。

オーストリア、ドイツ、オスマン帝国(トルコ)とブルガリア組。(+イタリア)

セルビア、ロシア、フランス、イギリス組。

どうやらドイツはことのついでに英、露、仏に勝って力をつけておきたい、という目論見があったようで。
確かにこの時点でのメンツならドイツ組(というか主役はオーストリアでは?)に十分勝機がありそうじゃないですか。



7月30日ロシアがセルビア支援に軍隊を派遣。
2日後にはドイツがロシアに宣戦布告。(セルビアじゃないんだ) 
次にドイツはフランスに宣戦布告。(やっぱりセルビアはアウト・オブ・眼中?w)

8月4日、中立国のベルギーにドイツ軍が入ったところでイギリスがドイツに宣戦布告。(ベルギーではなくイギリスが。仕切られてます)

えっと、これで6カ国かな?オスマン帝国とブルガリアはドイツ、オーストリアの同盟国だから8カ国ですか。ヨーロッパ主要国巻き込んだ形になりました。


一週間で!!
帝国主義恐るべし!!


まとめると

同盟国  ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ブルガリア。

対するセルビア側は連合軍と称し、イギリス、フランス、ロシア、セルビア、モンテネグロ、日本他。4年の間にどんどん増えて、最終的に27カ国だそうです。
27対4!!
これで4年戦った同盟軍、強いッス(@_@;)

そんでさりげに日本も混ざってますねw
極東からわざわざ。
日本は日露戦争時の「日英同盟」がありますから。というかそれを理由に参戦したようです。どうみてもお零れ狙い丸出し・・・ごほっごほっw


イタリアは三国同盟(オーストリア、ドイツとイタリア)のメンバーでしたが、当初様子見し、1915年連合側で参戦。
外交としては賢い?
戦況を見極めてから同盟国の敵として、というところがなんともかんとも。見習おうw


改めて調べてみると、同盟国は次々と中立国に侵入して占領しては反感かって敵を増やした感がありますね。この辺りを掘り下げるとおもしろいものがいろいろ出てきそうです。でも割愛。調べてられないから。

ただ、中立国にまで攻撃をしかけたドイツのやり方が、アメリカをその気にさせてしまったのは(同盟国にとっては)よくなかった。
最終的に1917年4月参加のアメリカが、この戦争の勝敗を分けたというか一気に連合を攻勢に導いたわけです。

アメリカ本国は戦場になってないし、後から参戦だから兵は元気だし。
ピチピチいきのいい状態で、疲弊しきった同盟軍と相対したのですから、そりゃ強いって。

そんなアメリカですが開戦当初、参戦の意思はなかった。

教科書にも出てきますね。モンロー主義。アメリカとヨーロッパは互いに不干渉で頼むよ、という奴です。これがあるからアメリカは中立を守るつもりでいました。

アメリカ人の乗ったイギリス客船(つまり一般人の乗っている船ですよね)をドイツ潜水艦が無警告撃沈するまでは。

アメリカ人128名死亡。
世論大騒ぎ。
もし当時ドイツの板があったら大炎上!といったところでしょうか。
他にも要素はいろいろあったんでしょうが「ドイツ許すまじ!」の気運が一気に高まったのは事実でしょう。


ところがここでロシアが革命を理由に連合無視して、なんとドイツと単独講和しちゃった!


ふー(;一_一)=〇


なんだかもう、な展開ですね。
事実は小説よりなんとか。

せめて連合内でちゃんと話し合ってからにしようよ、ロシア。
東部戦線でロシアがドイツの戦力を削いでくれてたから、西部戦線での戦闘が成り立ってたのに。
平たく言えば連合への裏切り行為ですな。

この講和のおかげでロシアの心配がなくなったドイツは、東部戦線の兵を西部戦線に回すことが可能になりました。つまり西部戦線の兵力を増強できちゃった。えっと、これが1918年3月ですか。

ドイツ盛り返す!
西部戦線激化!

そこへ7月。アメリカ軍到着。なんと100万人。

決定的。

9,10,11月と続けてブルガリア、オスマン帝国、オーストリアが降伏。
同じ11月、ドイツ皇帝ヴィルヘルムⅡ世がオランダに亡命すると社会民主党を中心とした臨時政府がドイツに誕生し、休戦条約に調印がなされました。
4年と4か月ですか?に渡った第一次世界大戦についに終止符が打たれたわけであります。

この後帝国は解体。後遺症として、白人優位の嘘つき約束をあちこちの植民地にして回ったイギリスは、後々ツケを払って回るはめに陥りますが、それはまあ、割愛いたしますw



調べたのはだいたいこんなところでしょうか。
さくっと齧っただけなので適当感に満ち溢れておりますがw

上司が見てもいいように、という制約がなくなったので、結構自由に書きなぐり。

こういうブログなら書いてておいらも楽しいんだけどなー(-.-)。
読む立場からするとけっこうどうでもいい内容www