那須夏くんがおいらの書いたものに曲を作ってくれました(^-^)v
とってもきれいな曲です。
那須夏くん、本当にありがとうvvv
この話の書き始めは1988年。23年も経つのか。月日の経つのは早いねぇ(=_=)
昔を思い出してちょっぴりしみじみ。
なので桜について何となくつらつらと書いてみました。
昨日は子供らと受験の打ち上げをしました。
近所のファミレスに行こうと思ったらつぶれてた(T_T) ので30分ばかり歩いて別のファミレスへ。
途中某企業の工場があるんですが、道路に面した柵に沿って、桜が植えられていて、見事な桜並木になっております。
満開の桜。
こんな見事なの見たのは久しぶり。
桜は春には欠かせない花だったのに。
幼少時、通学路に大きな桜の木が数本あるお屋敷がありました。夏は毛虫が怖くて首をすくめて走って通り抜けたけど、春は花びらを受け止めながら上を見上げて歩いた。
この記憶がたぶんおいらの桜の原点。
当時は季節になると家族で毎年桜を見にあちこち回りました。
吉野の千本桜。
円山公園。
南禅寺。
金閣。
醍醐。
白河。
鴨川の通り抜け。
宇治川。
あちらで開花した、こちらが見ごろ、の話を聞く度足を運び。
おそらくはそのせいで、桜は「花」ではなく「春」という季節の風景の記憶として私の中の引き出しの一つを占領しています。
そんな私の桜のイメージを決定づけたのは「遠野物語」のポスターでした。
あれはいつだったろう。キャンペーンか何かがあったのかな?よく覚えていないけど、絵の印象は(若干の脳内修正を経て)今だに鮮明です。
真っ暗な闇の中、煌々と浮かび上がる桜の大木。
これはこれまでの「桜」と違う位置にカテゴライズされました。
春の象徴である「風景の中の桜」とイメージ化された「存在しない桜」と。
この「架空の桜」を自分の中から引きずり出して形にしたくて、桜行脚を繰り返した時期もあったなぁ。
今日は友人と花見です。九段下まで行ってきます。
「 桜
桜のしたに人あまたつどひ居ぬ
なにをして遊ぶならむ。
われも桜の木の下に立ちてみたれども
わがこころはつめたくして
花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。
いとほしや
いま春の日のまひるどき
あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。
萩原朔太郎 」